無意識の「泣く」と有意識の「泣く」
情動を基に感情が生まれる。という説からすると、「泣くからかわいそうと思うのであって、
かわいそうに思うから泣くわけではないのか?」という疑問に対してCELESTEEでは、次の解釈をしています。
まず、悲しみにより泣くという行為は、情動では無く、計画行動だと分類しています。
「泣く」という行為・行動であって、これは手を動かしてパソコンのキーボードをたたくような、
有意識下の行動であるとみています。
つまり、泣くことは原則制御「可能」な行為であり、噓泣きなどが例にあげられます。
また、子供の頃、転んで泣いた思い出があるかと思いますが、これも大人になった今では制御可能です。
これは、「悲しい」が「泣く」の契機になっている場合です(感情→泣く)。
これとは別に、赤ちゃんの頃に泣くという行為は、行動随伴性による反応であり、有意識の行動とは別物です。
「行動随伴性」の泣くという行為は、不都合や痛みなどの拒絶反応として体が訴える生得的な手段で、
論理的欲求を介さない無意識な情動行動の1つとして捉えています。
これらの「泣く」が混同され、理解を難しくしていると考えられます。
CELESTEEでは、全ての感情が情動から成り立つ事は正しいとして設計しますが、
一度構築された論理的欲求は感情を生み出す部品の一つとして整理しています。
詰まる所、幼い子であれば、感情そのものが少なく、情動が多くを占め、
幼児から子供や大人になるにつれて論理的欲求が蓄積され、
情動及び感情(環境的快楽や論理的快楽や社会的快楽など)の両面の契機から、「泣く」ことがあり得ると考えています。
感情からやってくる「泣く」とは、欲求の出力結果を再入力可能な器官によって自意識し、
誘引検索の末に、「泣く」(拒絶する)ものであると見立てています。
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